Bit Z 「ホグワーツに一週間早く、ですか?」 まだ日の高いうちに珍しく訪れた教授と向かい合わせに座り、いつものように紅茶を飲んでいると、これまた珍しく教授から話しかけてきた。その内容も驚くもので、一週間早くホグワーツに戻らないか、というものだった。 夏の休暇が終わるまであと一週間ある。教授も自宅に戻っていたらしいが、新学期の準備の関係で早めにホグワーツに戻るらしく、そうなると此処へ足を運ぶのも難しくなり、それならばいっそ私をホグワーツに戻せば良いと考えたらしい。 「それは構いませんけど、どうしてまた。」 「ティナスに煩く言われるよりもましだと思ったからだ。ホグワーツに戻ることはティナスがダンブルドア校長に頼み、校長の了承を得ている。」 そう云いながらも教授は不服そうな顔をしている。結局休暇中私のお守りをさせられているようなものだ。申し訳ないと思いつつ、教授と過ごす時間を楽しんでいる自分もいる。残りの休暇も特にすることはないので、ホグワーツに行くのが早まっても支障はない。今からでも大丈夫なほどである。 再び本に視線を落とした教授の前髪に小さな屑が付いていることに気が付き、ローズティーが入ったガラスのカップを少しずらして、腕を伸ばしあと少しで前髪指先が触れようとしたところで勢い良くその手が払われた。体を少し前屈みにしたまま、伸ばした腕は行き場を失い宙を彷徨った。教授は嫌悪感に近い色をその黒い瞳に浮かべこちらを睨んだ。 「すみません、前髪に何かついていたから、」 手を膝の上に戻し、俯くと、前から小さい溜息が聞こえた。それに続いて「顔を上げろ」といつもどおりの声色で教授が口を開いた。云うとおりに顔を上げ様子を伺うと、先ほどとは違い、むしろ少し困ったように私を見ていた。 「もう冷めているだろう。淹れ直そう。」 カップを持ち、奥のキッチンへと教授は行ってしまった。教授の機嫌の悪さや、他人への無関心にからくる冷たさには慣れたつもりだったけれど、今のような直接的な拒絶は初めてだった。この休暇の間に私と彼との距離は縮まったと勝手に思っていた分、驚きは大きかった。この日は結局、紅茶を淹れ直した後すぐに教授は帰ってしまい、私は沈んだ気持ちのまま一日を終えた。 それから2日後、ホグワーツに戻る準備を済ませた私は教授と一緒にダンブルドア校長の部屋に続く移動キーのある場所へと向かった。その間も教授と私との間に会話はなく、ホグワーツに着いても二、三言校長と言葉と交わし教授は自室に戻ってしまった。 寮の部屋には当然誰もいない。ベッドの脇に鞄を置き、そのままベッドに寝転がった。昨日までいた家よりもホグワーツの方が涼しい気がする。開け放した窓から入ってくる心地よい風と体に馴染むベッドに、自然と瞼が下りてきた。 次に目が覚めたのは、すっかり夜になっていて開けたままの窓の向こうは真っ暗だ。体を起こし枕元のライトスタンドに明かりをつける。時計を見ると9時を回っていた。 寝ている間にかいた汗を流すためにシャワーを浴びて、部屋着に着替えて濡れたままの髪をタオルで拭きながら談話室のソファに足を放り投げて座った。持参の紅茶セットをテーブルに広げ、ふと思いついた鼻歌を口ずさみ寛いでいると寮の扉が開く音がした。カツカツ、と速いテンポの足音が近づいてくる。すっかり聞き慣れてしまった足音だ。 「こんばんわ、スネイプ教授。」 入り口への通路に繋がる扉から現れたのはやはりスネイプ教授だった。見慣れた黒いローブに身と包んだ彼の手には一通の手紙が握られている。それを私に差し出し、何も云わずに去っていく彼の後を急いで追うと、突然止まったせいで教授の背中に額をぶつけた。 「何をしている。」 「あの、何ですか、この手紙、宛名がありません。」 教授から渡された手紙には宛名も差出人の名前もない。ただ橙色の蝋に華の刻印が押されているだけだ。教授は何も言わず私の手からその手紙を取り、封を切り中身を出した。それを受け取り見てみると、その字は良く見慣れたお母さんのものだった。 「橙の蝋に華の刻印は昔からティナスが使っているものだ。」 「このシーリング、もしかしてサンビタリアの華ですか。」 良く見るとその花はお母さんの旧姓サンビタリアと同じ名前の華に良く似ている。だとしたらお母さんがこれを使うのも納得がいく。けれど私がこの刻印を見たのは今回が初めてだった。 「それは、」 何か言いかけて、止めてしまった教授を見上げると、またあの瞳をしていた。時折見せるこの瞳が私は何となく苦手だ。まだホグワーツに来たばかりの頃、まだ教授が私の素性を何も知らない頃、スプラウト先生の手伝いで温室に行ってサンビタリアに似た花を見つけたときに、教授と温室で鉢合わせたときも、彼はその花を見て、そう今と同じ瞳をしていた。あの時から、遠い過去を見るようなこの目は私をひどく不安にさせる。 「それは、私の父がティナスに贈ったものだ。」 前を向く前に呟くように教授は云った。蝋印を指先でなぞって、華の輪郭を辿る。この華は教授の父親、つまり私の父親からお母さんに贈られたもの。教授の口から彼の父親と母とのことを聞くことはなかったので不思議な気分だった。それよりも気になったのは教授の声が少し震えているような気がした。 頭の中で教授の瞳と言葉が交錯する。微かに震える声がが反響している。歩み始めて遠ざかっていく背中を見つめたまま、何もできずにただ立ちすくんでいる自分がもどかしい。それに、何でこんなに激しく脈打つのだろう。それはもう痛いくらいに。 「以前、私がサンビタリアの花には花言葉が二つあると言ったのを覚えていらっしゃいますか。」 扉の前まで着いていた教授はこちらを振り返り見た。薄暗いせいでどんな顔をしているのかは分からない。彼からも私の顔は背後の談話室の明かりの逆光のせいで見えないだろう。 「一つは、切なる喜び、」 もう一つは―――、そして暗がりの向こうから聞こえた声は私の声と重なった。 「私を見て」 「いいこと、お母さんの昔の名前には二つの意味があるのよ。一つは切なる喜び、もう一つはね、私を見て。凄く素敵でしょう愛しい人が私の名前を見ればその気持ちが伝わるの。それこそ切なる喜びだわ。私がいなくてもその名前が私と相手を繋ぎとめてくれる。サンビタリア、今はもう変わってしまったけれど私のとても大切な名前よ。」 お母さんがそんな話をしたことをふと思い出した。そして再び封をしていた蝋印に目を落とす。教授の父親から贈られたという私が今日初めて見た刻印。 「お母さんと彼を今でも繋ぎとめているのはサンビタリアだったんですね。」 「お前は、それでいいのか。」 「どういう意味ですか。」 「お前の母親は今でもお前の今の父親とは違う男を忘れられずにいるままでいいのか。」 「答えづらい質問ですね。けれど今ならはっきりと言えます。私は今でも亡くなった旦那様を愛していて、お父さんを愛しているお母さんが一番彼女らしいと思うから。サンビタリアという名前でなくなった彼女が彼との間にできた私を失わないように、私を傷つけてまでも私を愛してくれていたことも知りました。」 話し終えると同時に足音が私のほうへ近づいてきて、談話室からの明かりで教授の姿が浮かび上がった。目の前に立つ教授を見上げる私の名前を教授は無表情のまま呼んだ。返事をする前に肩を押され壁に背中を強くぶつける。 「何故お前はそうやって笑っていられる?」 「スネイプ教授、手を離して下さい、」 「悔しくはないのか、辛くはないのか、何故、」 「教授…?」 「何故、自分を愛していると言えるのだ。」 肩に置かれていた手の力は緩んで、それ以上何も云わず教授は寮から出て行った。私は壁に凭れたまま教授の後を追うこともできなかった。 <|◇|> |