Bit X



教授から今日の夜に訪れるという手紙が届いた。朝から急いで家中の掃除をし、夕食の仕込を終えて、二階のお母さんの部屋のクローゼットから私も着れそうな服を選ぶ。選んだのは真っ黒のワンピース。袖と首元に小ぶりのパールのボタンがついている。お母さんが好きそうなデザインのそのワンピースに身を包み、教授を迎える準備をいったん止めて、休憩と称しソファに寝転がったまま、眠ってしまった。



重たい瞼を上げると家の中は真っ暗だった。体を起こし辺りを見渡し、はっと我に返る。一体今は何時なのだろう。教授はまだ来てないだろうか。もしかしたら来たものの返事がないので帰ったのかもしれない。波のように押し寄せる不安感に駆られて玄関に駆けつけドアを開けると同時以前にも聞いたことのある音がした。


、貴様!」


案の定ドアは今来たばかりの教授に当たってしまった。それよりも私は彼が帰ってしまっていなかったことの方に安心して思わず安堵の溜息を漏らすと、私の様子を怪訝に思った教授は何かあったのかと問うてきた。何もなかったわけではないが、理由を素直に述べるのは恥ずかしく思えたので、適当にごまかして彼を家の中に迎え入れた。


家のランプに明かりを灯すと先ほどまで真っ暗だった家の中がすっかり明るくなった。夕食の準備はあと少しで終わるんですと教授の方を振り返ると、彼は驚いたようにして立ち止まったままだった。声をかけると我に返ったように教授は咳払いをした。

テーブルに食事を並べて、向かい合わせに座る。教授は目の前に広げられた皿を一瞥し、何の真似だと低く唸った。


「先日言ったでしょう、料理くらいすると。」
「それで何故、私が貴様の料理を食さねばならんのだ。」
「そう仰ると思ってました。一人での食事は味気ないとでも言っておきましょう。」


それ以上は何も言わなくなった教授はフォークを持ち、口に運んだ。感想は期待していなかったので、私も気にせず食事を始める。会話のない食卓に、二人とも黒い服を着ている。


「お葬式みたいです。」


何だかんだ言いつつも全ての料理を残さず食べた教授はそろりと視線を私に向ける。彼のこの冷たい人を蔑むような目にはもう慣れてしまった。


「私も教授も黒い服を着て、ただ黙々と食事をする。お葬式みたいじゃないですか。」
「私に何か話せと?」
「そういうことではなくて、」
「その服だが、それはお前のものか。」
「あ、いえ、母のを借りました。もしかしてご存知でしたか。」
「ティナスが、よく気に入って着ていた。」


食器を片付けようと席を立った私には目を向けず教授はただどこかぼんやりとしていた。彼と話をしていると時折このようなことがある。彼の瞳に映るものは目の前のものではなくもっと何処か遠い場所にあるような、そんな瞳をする時が。


「教授は母と仲が良かったと伺いました。」
「校長の戯言だ。」
「母は学生時代どのような生徒でしたか。」


なぜかいつもとは違って言葉がうまく出てこない。教授はずっと窓の外を見たままで私を見ようとはしない。


「そんなことを聞いてどうする。」
「ただの好奇心です。」
「くだらない。」
「くだらないことなんかじゃないです。」


すると突然教授は私の方に顔を向けた。最初に家に入ってきたときと同じように彼にしては珍しく驚きの色を浮かべた表情をしていた。


「お前は母親の似なくていいところに似たのだろうな。」


そう言って小さく浮かべた笑みは今まで私が見たなかで一番穏やかで優しくて、けれど少し哀しげで、何が彼にそんな顔をさせるのだろう、少なくともそれは私ではないことだけは分かった。


私は教授のことを何も知らない。

前触れもなく襲った虚無感に眩暈がした。