夕食を終えて大広間も静かになる頃、彼女は本を片手に厚く重い扉を控えめに3回ノックする。


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部屋に入ると本をテーブルに置き、奥の部屋で紅茶の準備を始める。彼女が持ってきた本に目をやると、見覚えのある本だった。手に取り適当なページを開いて目を通す。それはまだ自分が此処の学生だった頃読んだことのある本だった。薬学や魔法関連のものではなくありきたりな展開の小説。手に取ったものの最初の数ページで読むのをやめた記憶がある。こういう類の本は好んで読みはしない、なら何故昔の私はこれを読んでみようと思ったのだろう。


「教授、紅茶を淹れてきました。」


目の前に置かれたティーカップからは白い湯気が出ている。彼女、は向かいの席に座ると紅茶を一口飲み笑みを浮かべた。今日はフレーバーティーにしてみたんです、そう云って私の方を見る。確かにいつも飲む紅茶よりも香りが強い。


「ローズヒップは香りも色も綺麗ですよね。」


ティーカップの中の紅茶は透き通る赤。癖も後味の悪さもなく、酸味も心地よい。フレーバーティーを普段飲まないせいか、些か抵抗感もあったが、飲んでみるとこれはこれで悪くはない。ふと視線を感じ顔を上げると、が両手でカップを持ったままこちらを見ていた。


「紅茶、どうですか。」
「ああ。」


その一言に彼女は満足したように笑った。紅茶に持つ感想などをいちいち述べる気にもならず、先程のような返答しかしていないのに、何故彼女がそのような笑みを浮かべられるのか毎回分からない。ソーサーにカップを置き、本を広げたを横目で見る。自分と同じ黒い髪が耳にかけられ、黒い瞳は本に集中している。その姿は学生時代の彼女の母親に似ていた。ティナス・サンビタリアの学生時代の姿を頭を過ぎり、ふとあることを思い出した。


「その本を面白いと思うか。」
「え、これですか。そうですね、まだ最初の数ページしか読んでませんけど、あまり先は気になりませんね。」
「私が学生時代に読んだ時は直ぐに読むのを止めた。」
「教授も小説をお読みになるのですか。」
「全く読まん。が、それはお前の母親が私に押し付けてきた。」


そうだ、この本を私が読むきっかけになったのは、誰でもない彼女の母親だった。あまりにもつまらない本があるから読んでみろと私にその本を押し付け、代わりにその時私が読んでいた本を取っていったティナス・サンビタリアは私がその本がどれほどつまらないか理解するまで私の本を返そうとはしなかった。


「馬鹿らしくて少し読んで、確かにくだらなかったと感想を述べた。」
「母もまた随分勝手なことをしたんですね。」
「お前はまだ読むのか。」
「はい、だってまだ最初の方でこれからどんな話になるのか全然分かりません。小説なんてどれもそんなものだと思います。」
「私もサンビタリアも最後まで行き着かないほど下らない話だったが、考えようによってはどうにでもなるな。」
「読み終えたらどんな終わりだったかお聞かせしましょうか。」
「結構だ。」


それは失礼しました、と苦笑いしたは再び本に視線を落とした。私もまた膝の上にのせた本を捲り挟んでいた栞を外す。文字がスペース一杯に並ぶページを見ながら、そういえば学生時代読んだ小説はサンビタリアが押し付けてきたあの一冊だけだったことを思い出した。あのときからずっと今読んでいるような実用書や論文のようなものしか読まない。小説ほど読んでいて飽きるものはなかった。このような私と逆にが読む本は小説が多い。時折それなりに難しい本を読んでいるのを見受けるがその殆どは授業の予習だ。結局余計なことを考えていたせいで、本の内容は何も頭に入ってはこない。少し苛立たしさを感じ、紅茶に口をつけ、考えるのをやめた。




陶器と陶器がぶつかる音がして、今まで遮断されていた音が耳に一気に流れ込んでくるような感覚を覚えた。本を読むのに集中すると周りの音が聞こえなくなることは良くあるが、最近それに少し違和感を覚えるようになった。顔を上げるとが丁度紅茶を淹れているところで、先程の赤みの強い紅茶とは違うものが注がれた。


「すっきりとしたものが飲みたかったので、ダージリンにしたんですけど、良かったですか。」


何も言わずにただ注がれた紅茶を眺めていると彼女は小さく私の名前を呼んだ。彼女の方を向くとどこか心配そうな顔をしたまま座らずに立っていた。


「どうした。」
「ダージリンの気分じゃなかったら、淹れなおして来ます。」
「いや、このままでいい。」


はまだ表情を曇らしていたが、やっと椅子に腰を下ろし淹れ立ての紅茶に口をつけた。彼女の様子を眺めながら、私もまだ熱い紅茶を飲む。爽やかな香りに、はっきりとし味は素朴だが嫌いではなかった。


「特に変化はないが、こういうものが一番飲みやすい。」


カップをソーサーに置いて、に告げると先程まで曇っていた彼女の表情が途端に明るくなって、いつもの笑みを浮かべた。が一体何に毎度笑みを浮かべるのかは分からないが、今回ばかりはその理由も分かった気がした。


「フレーバーティーは何かお菓子と一緒に飲むのが良いのかもしれませんね。」
「お前は此処で茶会でも始めるつもりか。」


いつものように相手を馬鹿にした笑いを漏らして、もう一口紅茶を飲んだ。は何か考えるように視線を斜め下に向け、はっと顔を上げた。嫌な予感がしたが敢えて口には出さず彼女の言葉を待つ。


「良いですねお茶会。私がお菓子を作って来ますから、いつか一緒にお茶会をしませんか。」


予感が的中して思わず眉間に手を当てた。大人しく落ち着いているせいで母親の面影はあっても性格は全く違うと思っていたが、やはり彼女もあの母親の子供には違いなかった。私を茶会に誘うなどするのはこの母娘ぐらいだ。学生時代、サンビタリアが「セブルス、お茶会をしましょう。」そう云って無理矢理椅子に私を座らせ、お世辞にも美味しいとは言えない紅茶と、ベーキングパウダーの入れすぎで苦くなったスコーンを食べたことを今でも鮮明に覚えている。


「すみません、失礼が過ぎました。」


過去の出来事を思い出すことに意識を向けていたせいで、目の前の彼女の存在を忘れていた。はまた表情を曇らせて苦笑いを浮かべた。突然黙った私が彼女の提案を不快に感じたと思って謝罪をしたのだろう。半ば呆れて溜息を漏らした私に、彼女はさらに申し訳なさそうに視線を下に向けた。


「不味い紅茶と苦いスコーンは出すな。」


私の言葉の意味を解せず、首を傾げたに小さく舌打ちをする。するとやっと理解したのか曇っていた表情はみるみる晴れていく。


「紅茶は美味しい茶葉を探してきますね、お菓子はスコーンで宜しいですか、他に好きな物があったら仰ってください。」


の言葉に耳を傾けながら、頬杖をついて本を読む。彼女の声は途中で聞こえなくなって、本に集中した私には何も聞こえなくなった。隣にいる彼女の存在すら忘れそうになるほど、本を読むときは外界のもの全てが遮断される。初めこそ普段一人でいる自室にこの女生徒がいることが違和感だったが、今はさして気にならない。本を捲る手が止まり、思考が本から自分自信の意識にシフトされた。本に集中して周りの音が聞こえなくなるのは良くあることだった。しかし、それは自分一人でいる場合であって、周囲に一人でも人間がいたら、気配を感じないほど集中することはない。最近感じる違和感の正体はこれだったのか。


「あの、教授。」


隣から聞こえてきた声に顔を向けると、が困ったように声を漏らした。どうやら何度も私を呼んだらしいが、返答がなく困り果てていたようであった。


「今日はもう失礼します。」
「まだ消灯時間まで1時間ほどあるが。」
「はい、でも明日は朝が早いので。」


寮に戻る準備を始めた彼女から視線を逸らす。

本を読んでいる最中に彼女がいても全く気配を感じない、というよりも私が彼女が其処にいることを気にしていないのだ。私も歳を取ったものだ。栞を挟み本を閉じる。席を立つと、奥にティーカップを片付けに行ったが戻ってきた。立っている私を不思議そうに見ながら、本を手に取る。


「書庫に用がある。」
「あ、それなら途中まで一緒に行きませんか。」


私の返答を待たずに扉を開いたは、私が部屋から出るのを待っていた。薄暗い階段に2人分の足音だけが響く。暖色の明りで照らされた廊下に出ると眩しそうに目を細め足を止めたが私の後を早足で追う。隣についた彼女に少し視線を向けると、目が合い彼女は黒い髪を揺らして、黒い瞳を細めいつもの笑みを浮かべた。