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少し汗ばんだ額を手の甲で拭いながら空を見上げると眩しいくらいの陽射しが降り注いでいる。もう夏なのか、と暑さから逃れるために長袖のシャツを捲くった。隣を歩くとスティリッシュは楽しそうにクィディッチの好みの選手の話をしている。次の授業まであと10分、のんびりと廊下を歩きながら一つ欠伸を漏らした。


あと数日でホグワーツに夏の長期休暇が訪れる。ハッフルパフの談話室も休暇中のイベントの話で持ちきりだ。冬休みこそフランスには戻らなかったが、今回は私も皆と一緒に列車に乗ってフランスの家に帰省するのだ。達とも休暇中に会う予定も立てている。今年の夏は楽しくなりそうだ。


「ねえ、休暇が始まる前に最後にホグズミートに行く日、何処に行くか決めた?」
「何処って、特に何も考えてないけど。」
「なら丁度良いわ、私どうしても行きたいお店があるの。新しくできたんだけど、」


の言葉に相槌を打ちながら、今日は本当に暑いなと思った。暑さのせいで朝から頭がぼんやりしているし、少しばかり鈍痛がする。いつもより暑いよね、とに云うと、そうかしら、という返事が返ってきた。私は人一倍暑がりというわけではないのだが、額の汗は止まらないし、頭の痛みは増す一方だ。


「どうしたの、ねえ、。」
「分からない、なんか、気持ち悪い。」


それから吐き気を覚えた私は、とスティリッシュに支えられ医務室に向かった。マダムが不在でどうしようかと迷ったが、二人にベッドで寝ていなさいと半ば無理矢理靴を脱がされ、白いシーツをかけられた。欠席の旨はちゃんと伝えておくからと言い残して二人は医務室から出て行って、私は一人大人しくベッドに寝転がった。横になると先ほど感じていた頭痛や吐き気も少し治まった。早くマダムが戻って来ないかと待っていると扉を開く音がして、足音が聞こえた。これでやっと診てもらえる、そう思って何とかベッドから起き上がり、ふらつく足取りでカーテンを開いた。


「マダム、体調が悪くて薬をいただけませんか。」
「残念だが無理だ。」
「え、」


マダムの声とは全く違う低く響くテノールに驚いて顔を上げると、そこに立っていたのはスネイプ教授だった。先程の足音はマダムではなく彼だったようだ。これではまだ薬が貰えない。頭痛は酷くなる一方で、吐き気は止まらない。失礼しましたと、教授に告げて、再びベッドに横になる。目を閉じると頭の中で何かが渦を巻いているような感覚を覚えた。ああ、本当気持ちが悪い。カーテンを開く音がして、振り返ると教授が立っている。


「風邪か。」
「分かりません。」


話すのですら億劫に感じるが彼の言葉を無視することはできない。目を閉じたまま、静かに息を漏らした。額にひんやりとしたものが触れて、目を開けると教授の手が置かれていた。熱がある、そう云って離れていく教授の手を目で追う。私はただぼんやりとそうか熱があるのかと思った。


「寝ていろ。」


そう言い残してカーテンを教授は閉め部屋から出て行った。まだ気持ち悪いが、少しずつ眠気が襲ってきた。





プツンと何かが途切れるように眠りから覚めた。一体どれくらい寝ていたのだろう、窓の外を見てみると空は既に深い藍色に染まっていて星が瞬いていた。ゆっくりと起き上がり靴を履く。立ち上がると軽い眩暈がしたが、寝る前よりは体のだるさも軽くなった気がする。カーテンを引いてマダムを呼んでみると今度は彼女の高い声で返事があった。


「熱はまだ少しあるみたいだわ。この薬を飲んだらもう一眠りしなさい。朝にはよくなってるはずよ。」


水の入ったグラスと薬を受け取って一気に飲み込む。薬独特の苦味が喉の奥に纏わりつくのが気持ち悪くてグラスの中の水を全て飲み干した。ベッドに戻り靴を脱いで横になる。息苦しくてネクタイを外し枕の横に置いた。瞼を閉じて眠ろうとしたが、なかなか寝付けなかった。すると医務室の扉が勢い良く開かれて、途端複数の声で騒がしくなり、ますます眠気が遠ざかっていく。どうしたのだろうと、カーテンの隙間から様子を窺う。生徒が一人、マクゴナガル先生とマダムに支えられているのが見えた。どうやら大きな怪我をしているらしく床に血が落ちている。


その生徒に一体何があったのかは知らないが、微かに聞こえる唸り声が怪我の深さを物語っていて、聞いているこちらまで傷が疼くような感覚に襲われて思わず耳を塞いだ。ベッドの上に座ったまま暫らくの間そうしていると、カーテンが引かれる音がした気がして勢い良く顔を上げると、スネイプ教授が立っていた。


「どうして、」
「寝ていればいいものを。」


両手が耳から離れると、唸り声はもう聞こえなかった。マクゴナガル先生とマダムの姿は見当たらず、怪我をしていた生徒はどのベッドにもいなかった。どうなったのか分からないまま唖然としてスネイプ先生の顔を見る。


「寮から抜け出して、外を歩いていた際に暴れ柳に捕まって散々宙で振り回された挙句に、勢い良く地面に投げ出され、あの様だ。」
「暴れ柳に、ですか。」
「自業自得だ。」
「あの生徒は何処に行ったんですか。」
「寮の自室に戻った。そんな大した怪我でもない。」
「でも、凄く痛そうでした。」
「それよりも自分の心配でもしたらどうだ。」


教授のその一言にどう返せばいいか分からず、ただじっと見ていると掌が視界を遮って、額に心地のよい冷たさを感じた。それは直ぐに離れて、再び教授と視線がぶつかる。


「熱は下がったようだな。」
「マダムから薬を頂きましたから。」


納得したのか、スネイプ教授は踵を返して医務室から出て行こうとした。白いカーテンで区切られた空間から黒いローブが翻る後姿に何故か焦燥感に駆られて腕を伸ばすと、指先が黒を掴んだ。


「何だ。」
「あ、いや、その、思わず。」


歯切れの悪い返事に、教授は眉間に皺を寄せてこちらを振り返った。私の手はまだローブを掴んだままだ。流れる沈黙に居心地の悪さを感じる。俯いたままの私より先に口を開いたのは教授だった。


「マダムが直ぐに戻ってくる。」
「はい。」
「早くその風邪を治せ。私の淹れた紅茶が飲める機会を失っても良いのか。」
「教授の淹れた?」
「もう寝なさい。」


ゆっくりと私の手を解いて教授の掌が額よりも少し高いところに置かれた。私が小さく頷くと、教授の手が離れ、白いカーテンが静かに閉められた。教授の言葉をもう一度頭の中で反芻しながら、シーツの上に倒れこむ。言われたとおりもう寝ようと、瞼を閉じる。頭の痛みはまだ少し残っているけれど、このまま寝てしまえば次ぎ起きたころにはもう治っているだろう。



その日の朝、目が覚めると熱は下がり頭痛ももうしなかった。寮に戻り、支度をして朝食をとりに大広間に向かう途中の廊下でスネイプ教授を見かけた。教授もまた私に気がついたのか足を止めた。他の生徒はもう大広間に行っているせいか、廊下には誰一人いないのを良いことに、私は教授に駆け寄った。


「お早うございます。」
「ああ。」
「昨晩はお世話になりました。」
「大したことはしていない。」
「あ、それと今日の放課後、執務室にお邪魔して良いですか。」
「お前はいつも勝手に来ているだろう。」
「だって、今日はスネイプ教授が紅茶を淹れてくださるんですよね。」
「何の話だ。」
「教授の淹れてくださる紅茶が飲みたいから、頑張って風邪を治したんです。」
「ただ寝ていただけだ。」


そうやってはぐらかす教授に太刀打ちできる言葉もなく、いつも通りの無表情の教授を見上げながら、どうしようかと考えていると教授が私の横を通り過ぎた。慌ててその背中を追いかけようとしたが、教授の歩く先に朝食を済ませた生徒が見えて足を止めた。すると先を歩いていた教授が歩みを止めこちら振り返る。


「アールグレイで良いな。」


低いテノールが静かに廊下に響いた。再び歩き始めた教授の後姿を眺めたまま私は、また小さく頷いた。


そうだ、今日の放課後はお父さんから届いたいつもとは違うブランドの茶葉を持っていこう。きっと教授も気に入ってくれるはずだ。






Bit第三章終了