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「母から教授はとても優秀な方だと聞きました。」
「何が言いたい。」
「魔法史のレポートで、煮詰まってしまって。」





教授の自室を訪れることが日常の一部になりつつある。今日もまた例外なく二人分のティーカップが置かれたテーブルを挟んで教授と向かい合って座っている。いつもと違うのは私がテーブルの上に羊皮紙を広げ、羽根ペンを手にしているということだ。教授は相変わらず難しい顔をして難しい本を読んでいる。


「そこまで書いたのなら自分でやった方が早いと思うがね。」
「最後のまとめが納得いくものにならなくて、何かアドバイスをいただけませんか。」
「私にお前の書いたそれを読めと?」
「そう、なりますね。やっぱり良いです、すみません。」


羽根ペンをインク瓶に入れて、途中まで書いているレポートを読み直す。参考文献を読んで自分の意見を書くだけといういかにもなレポートなのだが、終盤の自分の意見の部分の途中で筆が止まってしまった。もともとレポートはそんなに得意ではない。どちらといえば、薬草学や魔法薬学のように自分で作業をするほうが好きだ。まとまりの無い文章を読みながらそんなことを考えていると、向かいに座る教授に名前を呼ばれた。


「貸せ。」
「読んで下さるんですか。」
「今読んでいる本を読み終えた。暇潰しくらいにはなるだろう。」
「それじゃあ、お願いします。」


テーブルに片肘をついて、頬杖をし組んだ足の上に羊皮紙を置いて教授は文字を目で追う。ふとテーブルの上に置かれたティーカップに目をやると、紅茶はもう入っていなかった。静かに席を立ち奥の小部屋に向かう。棚から茶葉の入った缶を手にとって、二人分の紅茶を用意し教授のいる部屋に戻る。新しく用意したティーカップに紅茶を注ぎ、教授の前に置いて数秒後に教授がカップを手にとり一口紅茶を飲んだ。


「これは。」
「母から送られてきたものの一つです。シッキムていう茶葉なんですけど、渋みが少ないから好きなんです。」
「確かに飲みやすい。」


もう一口飲んでテーブルの上にカップを置いた教授は再び羊皮紙に視線を落とした。奥の小部屋の棚にはたくさん茶葉の缶はあるけれど、茶葉が減っているのは大体手前に置いてあったアッサムだけで、中には一度も封の切られていないものもあった。どうやら教授は紅茶は飲んでも色んな種類のものには手を出さないらしい。私はその逆で、色んな種類の紅茶を飲むのが好きだ。それもあって教授の部屋で紅茶を淹れるときは毎回違う茶葉を選んでいるのだが、味の違いに気付くたび教授は手を休め、さっきのように茶葉の説明を求める。私も自分の持つ知識を全て出してそれに答えるが、それにも当然限界があって、最近では紅茶について書かれた本を読むようになった。


「お前の書く文章はまとまりがない。」
「はい。」
「だが、文献からの引用部は適切なものと言える。内容全体が的外れというわけでもない。」


羊皮紙をテーブルに広げ一つ一つ改善点を述べる教授の言葉に集中して耳を傾け、言われたとおりに書き直して、筆を進めた。途中、教授が本棚から探してきた文献はとても役に立って何とか最後まで書き上げることができた。少しくたびれた紙を伸ばして、やっと終わった嬉しさに思わず笑みがこぼれた。


「ありがとうございました、教授。」
「まさか生徒に使われる日が来るとはな。」
「使うだなんて、教授は教授としてすべきことをしたまでです。あ、紅茶のおかわりはどうしますか。」
「いや、もういい。」


教授が本棚から出してきた本を読み始めると、一気に部屋は静かになった。今日は消灯時間までレポートに費やすつもりだったので、思っていたよりも早く書き終えたおかげ私は手持ち無沙汰になった。本は一冊も持ってきてはいないし、かといって教授の本棚の本は私にはどれも難しくて読む気がしない。インク瓶の蓋を閉めながら教授の様子を窺う。長い前髪の隙間から見える黒い瞳は黙々と文字を追っていて、私の視線に気付いてはいないようだ。羊皮紙と筆記用具をテーブルの隅に避けて、開いたスペースに肘をつき重ねた手の甲に軽く顎をのせて部屋を見渡した。思わず出そうになった欠伸を噛むと、視界が少しぼやけた。そのまま少しの間何もするわけもなく、ぼーっとしていると次第に瞼が下りてきた。





紅茶を飲むようになったのはお父さんの影響だ。小さい頃から家にはたくさんの種類の茶葉があった。お母さんと二人で作ったスコーンを食べながら家族4人でテラスで紅茶を飲むのが好きだった。ボーバトンに入学するとそうやって過ごす時間は減ってしまって、この前フランスに帰ったときに久しぶりテラスで紅茶を飲んだ。相変わらずお母さんの淹れる紅茶は濃くて少し苦いけど、その香りは今でも覚えてる。ああ、あの紅茶は何だっただろうか。そうだ、確か、


「ベルガモットの香り。」


柑橘系の爽やかで甘い香りに目を覚まし、ゆっくりと瞼を上げる。向かいの椅子には教授の姿はない。斜め前にティーカップが置かれ、後ろを振り向くとポットを片手に持った教授が立っていた。ティーカップからはベルガモットの香りが漂った。


「この紅茶は、」
「アールグレイだ。」


ポットをテーブルに置いて椅子に座った教授は「それを飲んだら寮に戻りなさい。」と云って、本を読み始めた。時計を見ると消灯時間の30分前で、どうやら長い時間居眠りをしていたようだ。頭はまだ覚めきっていなくて、小さく欠伸をすると教授がこちらに顔を向けた。


「昨日は差し詰め徹夜といったところか。」
「すみませんでした、教授の自室で寝てしまうなんて失礼なことをして。」
「消灯時間前までに目を覚まさなかったらそのまま部屋の外に放り出していた。」
「アールグレイの香りで目が覚めたんです。頂いてよろしいですか。」


何も云わないのは教授の肯定だ。アールグレイのはっきりと香りがするところが好きで、一口飲む前に口元で止めた。香りを楽しんでやっと口をつける。柔らかく広がる甘さに顔が綻んだ。


「美味しい。」
「幸いお前の母親よりはまだましなものを淹れられる。」
「そんな、凄く美味しいです。」
「自分で淹れたものを飲むことほど興醒めなものはない。それが最後だと思え。」
「最後ですか、それは残念です。」


教授は心にもないことを云う、と鼻で笑った。実際教授の淹れる紅茶はとても美味しいので、飲むのは凄く楽しみなのだが、この様子ではきっと滅多に淹れてくれないのだろう。教授曰く最後の紅茶を大事に飲むことにした。時計の秒針と、本を捲る音と、時折ティーカップをソーサーに置く音だけが部屋に響く。




「教授、寮に戻りますね、今日は本当にありがとうございました。」


なるべく読書の邪魔にならないようにと小声で言ったせいか、教授は私の声に気がついていないようだった。黙々と本を読む時の教授の集中力が凄いのは知っていたけれど、こんなことはなかったのでどうしようと困ってしまう。もう一度教授を見てみても先程となにも変わらない。思い切って席を立つと、やっと教授は気付いたようで、少し驚いた色を浮かべて顔を上げた。


「あ、えっと、もう戻ります、って言おうとしたのですが、その、読書の邪魔をしてしまって、」
「いや、気にするな。もうそんな時間か、早く行きなさい。」
「はい、失礼します。」


ティーカップだけ片付けて、持ってきた荷物を片手に扉を開ける。振り返ると、紅茶を飲む教授と目が合った。そのまま逸らすのも失礼だとは思ったが、何を言って良いのかも分からなかった。


「私の気が向いたらまた淹れてやる。」
「え?」
「紅茶だ。」
「あ、是非!楽しみにしてます。おやすみなさい。」


勢い良く頭を下げて、部屋を出た。私の言葉に相変わらず返事は少ないけれど、部屋を出る瞬間に見えた教授は、少しだけ笑みを浮かべているように見えた。次はいつ教授の紅茶が飲めるのか分からないけれど、私が教授の部屋に行く楽しみができたのには違いない。寮に戻る廊下は今日も暖かいオレンジで明るく照らされている。