Bit Z



週末の放課後の図書館は課題に追われる生徒で溢れていて、静かに本が読めるという状況ではなかった。寮の談話室も同様で、部屋では女の子達が集まって会話に花を咲かせている。さて、どうしようかと悩んだ挙句、思い浮かんだのは教授の部屋だった。数日前まで、教授から頼まれた本の整理や実験の器具の片付けをしに教授の部屋に通っていたというのもあって、其処へ行くのに然程抵抗感はなかった。読みかけの本を片手に教授の部屋へと足を急がせた。



誰もいない廊下を歩いていると、突然大きな足音が響いて足を止めた。近づいて来る足音の主は直ぐに姿を現し、その顔と名前くらいは私も知っていた。グリフィンドールのハリー・ポッターとロナルド・ウィーズリー。彼らは私の横を走って通り過ぎて行った。特に彼らと接点があるわけでもないので、あまり気に留めず再び歩き始める。


教授の自室へと続く階段の壁に掛かる灯りの幾つかが消えていたせいで、薄暗いというよりは、真っ暗に近いように思えた。段を踏み外さないように気をつけようと数段下りて、突然体がぐらりと傾いたかと思うと、全身に衝撃が走り、気がつけば扉の前に転がっていた。確か前にも一度、こんなことがあったはずだ。あの時は上っているときに梟のせいで後ろから転がり落ちた。起き上がると節々が痛んで、床に座り込んだまま階段を振り返ると皺くちゃになった紙が階段の下に落ちていた。あれを踏んで滑ったとしたら鈍臭い自分が情けない。小さく溜息を吐くと同時に、扉が開いて中から漏れる光で視界が開けた。それも束の間で、辺りは再び薄暗くなる。というのも開いた扉からスネイプ教授が出てきたからだ。


「何をしている。」
「階段を踏み外して、」


私の言葉に顔を顰めた教授は、階段の方に目をやって何かに気がついたのか、座り込む私の横を通り過ぎた。教授が手に取ったのは例の紙だ。それを見て教授は更に顔を顰めた。どこか不機嫌そうな教授の様子に、今日は来るべきではなかったと今更後悔してももう遅い。


「其処で座り込まれたら迷惑だ。」
「すみません。」


ゆっくりと立ち上がると、落ち着いていた痛みが再び疼き始めた。そんな私の様子を見た教授は、中に入れと、一言だけ告げて扉の奥に消えた。もともとそのつもりで此処に来たのだから、今更躊躇うのもどうかと思い、床に落ちた本を拾い上げて、薬品と本の匂いのする教授の部屋に足を踏み入れた。

教授はテーブルの上に消毒液とガーゼを用意して、椅子の隣に立っていた。教授に促されるままに椅子に座った私の腕を取り血の滲んだ傷口に水で湿ったガーゼを当て、消毒液を塗る教授は何も喋らない。その雰囲気に居心地の悪さを感じながら、次々と消毒液を塗られていく数箇所の傷口を目で追っていた。


「有難う御座いました。」


返事は返ってこない。消毒液を棚にしまう教授の後姿からさえ機嫌が悪いことが読み取れた。本来、スネイプ教授はこういう人物であるということを最近はすっかり忘れていた。授業以外で話す機会も増えたこともあり、当初感じていた近寄り難さが私の中で消えていたのだ。顔は膝に視線を向け俯いたままで上げることが出来なかった。


「二度も派手に転がり落ちるとは、呆れたものだ。」


向かいの椅子に座った教授が口を開いた。どう返事をしようか迷ったが、何を言っても反応は対して変わらないだろうと、思ったことをそのまま口に出す。


「いつもより階段の灯りが少なくて気をつけながら下りたんですけど、多分あの紙を踏んで滑ったんだと思います。私も自分の鈍臭さに呆れました。」
「お前が来る前に来ていた生徒が落としていった添削済みの課題だ。奴らは何をしても面倒事しか持ち込まん。」
「それって、ポッターとウィーズリーのことですか。此処に来る途中に廊下ですれ違いました。」
「次に会ったときに小言でも言ってやればいい。お前たちのせいで怪我をしたのだと。」
「彼らと面識はないし、流石にそれは。それに、教授が手当てしてくださったので直ぐ治ります。」


傷と教授を交互に見て笑うと、教授は面白くなさそうな表情をした。そんな教授とは反対に、機嫌が良くなかったのはグリフィンドールの彼らが原因だということが分かって、どこか安心していた。いつもなら迷惑だという言葉を漏らしながらも私の突然の訪問に応えれくれるのに、今日はそうではないということに多少不安を覚えていたのだ。


「今日は何の用だ。私が言ったことは全てし終えただろう。」
「教授の部屋で本を読ませて欲しいと思って。何処も人で賑わっていて静かな場所が無かったんです。だから教授の部屋なら静かに本が読めると思って。」
「貴様の私用に付き合う暇は無い。」
「迷惑なのは重々承知で来ました。教授の邪魔はしないので椅子を一つ貸してくださいませんか。」
「そうと分かっていて来るとは、図々しい。」


返す言葉もなくただ教授の顔を見た。ここまで拒否されてしまっては部屋から出て行くしかない。席を立とうと腰を上げかけた私よりも先に教授が席を立った。


「消灯時間前には必ず戻れ。」
「良いんですか。」
「そのつもりで来たのだろう、今更何を言う。」
「ありがとうございます。」


再び椅子に腰を下ろして、本棚の前に立つ教授の後姿を振り返り見た。私の視線に気がついたのか、教授もこちらを振り返る。目が合って慌てて顔を前に戻した。本から栞を外して読みかけの文章を目で追う。すると見開きのページに影が射して顔を上げると、後ろに教授が立っていた。


「薬草学の文献か。その本はやめたほうが良い。」
「それは、どういう、」
「私が学生の時に出版されたものだ、解説は時代遅れで、考え方も古い。」
「授業の予習はこの本では間に合いませんか。」
「教科書を読んだ方がましだ。」


教授にここまで言われてしまっては、先を読む気力も半減する。
かと言って教科書は既に読んでいて、それでも理解できなかったから図書館からこの本を借りてきたのである。特にすることもなくて予習でもしようかと、慣れないことをしようとしたのがいけなかったのか、本に視線を落としたまま色々と考えを巡らしていると、テーブルの上にこの本よりも幾分分厚く、比較的新しい本が置かれた。


「この本は。」
「薬草学ならその著者のものが良い。」
「図書館に置いてますか、これ。」
「そうだとしたら今頃お前はその下らない本など読んでいないだろうな。」


図書館に置いていないとしたら、この本を読むためには教授から借りなければいけない。それはそれで勇気がいるものだ。今まで読んでいた本を閉じ、小さく深呼吸をして、勢い良く教授の方を振り返った。しかし其処には今までいたはずの教授の姿はない。思わず呆然としていると、背にしていた奥の部屋から物音が聞こえた。体を前に向けて、中までは見えないが奥の部屋の様子を窺っていると、私の名前を呼ぶ声がした。返事をしたが教授は何も言わない。私に来いということなのだろうか、席を立って奥の部屋の扉の前で立ち止まる。扉は開けられたままなので、部屋の中が少し見えた。本棚やテーブルが置かれた部屋よりも薄暗くてはっきとは見えないが、カーテンが閉め切られた窓の隣に簡素なベッドが一つあった。その薄暗い部屋の中に暖色の灯りがこぼれている場所がある。其処から教授の声が再びした。


「何をしている。」
「あ、いや、入っても良いんでしょうか。」
「構わない。」


教授の一言に少し驚きながらも、一歩足を踏み入れた。教授はこの部屋と繋がっている小部屋にいた。其処はどうやら炊事場のようなものらしく、水道とシンクの隣には天井まで続く棚、それらの向かいに小さなテーブルがあるだけで、それ以外は何も無かった。


「あの、教授。」
「好きな物を選べ、他の用意は私がする。」
「好きな物、って。」


棚の高い段からティーカップやポットがふわりと静かにテーブルの上に下りた。同じ目線の段には紅茶の缶が所狭しと置かれている。中には初めて見るものもあって、思わず手に取った。ラベルにはダージリン、と書いてある。


「それにするのか。」
「えっと、これじゃなくて、えっと。」
「早くしろ。」


好きな物を選べというのは、茶葉を選べということだったのか。手に持っていた缶を戻して、一つ一つラベルを見ていく。同じ種類の茶葉でも、どれもブランドが違う。その中で見慣れたラベルの缶を見つけた。同じブランドの茶葉が何個かあってそれらを見ていると、あることに気がついた。


「あれ、この紅茶って。」


見慣れたラベルの缶というのは、私の家で良く飲んでいた紅茶のブランドのもので、この棚の中にあるそのブランドの茶葉の種類が私の家のもと同じだったのだ。お父さんが好きな紅茶で、家ではこの紅茶しか飲まないから良く覚えている。懐くかしくなって、それらの缶を一つずつ交互に見た。


「それはお前の母親から先日送れられてきた。迷惑をかけた侘びだそうだ。普段飲まない茶葉を送られたほうが逆に迷惑だがな。」
「そうなんですか、あ、この紅茶美味しいですよ。」
「そう思うなら、それの中から選べ。」
「教授もいかがですか。」
「私は結構。」
「一口だけでも、私が準備しますから。」


アールグレイとアッサムを手にとり教授を見上げると、眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。教授が機嫌を悪くする原因はこの状況において、私にしかない。どうしようかと考えても最善策が見当たらない。潔く謝って、自分が飲む茶葉だけ手渡そうとアッサムを棚に戻した。すると、横から伸びてきた手が戻したアッサムの缶を取り、テーブルに置いた。


「教授、私はアールグレイだけで充分です。」
「誰がお前にこれを飲めと言った。」
「でも、その茶葉は。」
「後はお前がすると言ったな。」


部屋に戻っていく教授の後姿を呆然と眺めた。部屋の方では椅子を引く音がして、私は急いで紅茶の準備に取り掛かった。





「あの、どうですか。」
「母親に紅茶の淹れ方を教わらなくて幸いだったな。」
「それはどういう意味ですか。」
「学生時代、サンビタリアの淹れる紅茶はいつも濃くて後味が悪かった。」


確かにお母さんの淹れる紅茶は今でも教授の言う通りである。お母さん自身、紅茶を入れるのは苦手だと云っていた。自分で淹れた紅茶を一口飲んでみたけれど、良くも悪くもない普通の味がした。


「消灯時間10分前だ、それを飲み終えたら戻れ。」
「あの、教授、」
「その本は部屋で読め。」
「お借りして良いんですか。」


何も云わないのが教授の返答だろう。私の淹れた紅茶を飲みながら教授は静かに本を読んでいた。最後の一口を飲み終えて、ティーカップとソーサーを片付けようとしたら、教授に呼び止められ、後の片付けはしなくていいと云うので、その言葉に甘えて部屋を後にした。長居していたせいで、自分が階段から転がり落ちたのを忘れていた。寮に戻る途中、白いガーゼが当たられた膝を見ながら、動く階段を上った。



「お帰りなさい、こんな時間まで何処行っていたの。」
「ちょっと本を読みに図書館まで。」
のことだから本に夢中になってたんでしょ。」
「あ、そう、そのとおり。」


が苦笑いしながらベッドの上に寝転がった。私も自分のベッドの上に座って彼女のほうを向く。はどこか楽しそうだった。


「最近、楽しそうね。」
「どうしたのいきなり。」
「冬休み前はなんとなく寂しそうだったから。」
「そうだったかしら。」
「そうよ、でも今は本当に楽しそう、良く笑うもの。」
「まあ、確かに、はいつも面白いわ。」


それってどういう意味なの、そう笑ったを背にして、私は布団を被った。は不満げに私の名前を呼んだが、私が何も返事をしないので諦めて彼女も眠りについた。灯りが消された部屋にいは月明かりが射しこんで仄かに明るい。ベッドの中でに云われた言葉を思い出しながら、枕元に置いた本の表紙に手を置いて目を閉じた。