Bit Y



少し前まで冷たい空気の中、目を覚ましていたというのに、最近は暖かい陽射しが部屋に射しこんでいる。ハッフルパフ寮はとても静かだ。図書館に返却する本を持って寮を後にした。階段を上りながら大きな欠伸をした途端、階段が激しく揺れ私が行きたかった階とは違う階に繋がった。戻ろうと思ったけれど、急いでいるわけでもないので一先ずその階で他の階段が来るのを待つことにした。けれどそんな私の思惑とは正反対に、どの階段も目の前を通り過ぎて、私がいる階で止まる気配が無い。


「遠回りした方が早いみたい。」


結局、その階の廊下の奥にある今度は動かない階段で下の階に行くことにして、動く階段を憎らしく思いながら歩き始めた。この階には教室は無く、寮の方向とも逆なので誰もいない。ふとある事を思い出して歩みを止める。この階に人がいないのは誰も用事がないということと、もう一つ理由があるではないか。例えば今私の右隣にある薄暗い階段を下りるとスネイプ教授の自室があるから、だとか。



フランスから戻って来でから数ヶ月過ぎたが、その間スネイプ教授は一回も会っていない。それは故意に避けているからというわけでもなく、ただの偶然である。私が家族のもとへ戻れたのはスネイプ教授、彼のおかげだと私は思っているのだけれど、その感謝の気持ちを伝えるのに中々良い機会に恵まれないまま今日に至るのだ。そのことをお母さんに手紙で伝えたら、教授にはお母さんから伝えるから心配しないで、という返事がきた。薄暗い階段の奥にある教授の自室の扉が頭に浮かんできて、全身をその階段に向ける。私は一段その階段を下りた。




重厚な扉をノックして名前を云ったが返事が無かった。もう一度ノックしてみてもやはり返事が無い、教授は留守のようだ。また機会を逃したことに溜め息を吐きながら後ろ向くと、階段を下りる足音が聞こえスネイプ教授が姿を現した。教授は私を見て怪訝そうに眉を顰めた。


「何の用だ。」
「いえ、特には。」


ドアノブに手をかけ部屋に入ろうとした教授が私を振り返り見た。私よりも背の高い教授の表情は背後の部屋から漏れる光のせいで暗くて良く分からない。続きを話そうとしたら、教授はローブを翻して、中に、とだけ云って部屋に入った。きっと私も部屋に入れということなのだろう、教授に続いて部屋に入る。立ったまま扉の前から動かない私に教授は椅子に座るよう声を掛けた。


「あの後直ぐにお前の母親から手紙が届いた。」
「はい、母から聞きました。」


棚の前に立って本の背表紙を指で追う教授の後姿を見ながら話を続けた。私の話を聞いているのか否かは分からないが、教授は何も言うことなく静かに手に取った本のページを捲った。


「すみません、特に用事も無いのに突然お伺いして。」
「お前はそれで良かったのか。母親と和解し、以前と同じようにお前が望んでいた生活を送れるというのに、何故ホグワーツに戻ってきた。」


私の方を見た教授の表情はいつもと同じだった。彼の黒いローブに視線を落とし、祖母の葬儀後の夜のことを思い出した。リビングに家族が集まり、私は泣いて目を腫らした妹のセシィの肩を抱きながらソファに座っていると、親戚の見送りから帰ってきた両親が私の向かいに座った。


、また一緒に暮らさないか。」
「今すぐにとは言わないわ。私は貴女にそうしなさいと言える立場ではないし、貴女の気持ちを優先したいから。」
「お母さん、私、此処に戻ってきて良いの。」
「私はまた貴女と一緒に過ごしたい。貴女の母親であることを一から始めたいと思ってる。」


失ったと思っていたものが戻ってきたことが嬉しくて何も云えなかった。目の前で優しく微笑む両親と隣で私にホグワーツから戻って来てほしいと云う妹の存在がとても温かく力強く感じたのだ。





「そう、ですね。フランスで家族と一緒に暮らすというのは私とって幸せなことです。」
「だがお前はそうしなかった。」
「両親に一緒に暮らそうと言われたときは嬉しかったです。」
「ならば何故、」
「一つだけ、一つだけやり残した事があって、それをどうしてもしたかったから。」


膝の上に置いた本を開いて気に入っている一節を指でなぞる。教授は其処から動きはしないが視線を私に落とした。


「切り取られてしまった妖精の羽根は結局最後まで見付からない。けれど、その代わり妖精は歩くことを覚えた。焼けるような背中の痛みはすっかり癒えて、遠い空を懐かしく思いながら、ただ地面を歩いたのだ。」
「その本は、」
「母も読んでいたものです。この妖精は全てを受け入れて、空を見上げ嘆くのもやめた。歩くことを覚えたその両足で今度は地上で生きることを決めたんです。以前は自由に飛べていた空が戻ってこないことが分かっていたから。」
「何が言いたい。」
「ホグワーツに来たばかりの時、家族のもとへ帰る日がくるとは思いもしませんでした。ホグワーツが私にとって居心地の良い場所になるとも思わなかった。何もかも中途半端にしか受け入れらなかった私には、妖精みたいに地上を歩く決心なんてできなかった。だから、私はやり残したことをするために此処に残りました。」
「そんなに大事なことなのか、お前の望みが叶うというのに。」
「実はこの本、数年前に、物語の最後が少し変えられて再版されているんです。母も知っている以前の話では妖精は空を飛ぶことは二度とないけれど、新しい方では、地上で暮らす人間が妖精のために羽根を作ってあげて、妖精は再び飛ぶことができました。」


本を閉じてゆっくりと椅子から立ち上がりスネイプ教授の目の前に立つ。初めて会ったときから教授は黒を思わせた。全てを埋め尽くす黒を。そしてそれは今も変わりないが、今の私はその黒を心地よく感じるのだ。他人を拒む雰囲気を持つ彼が私の背中を押したという事実は変えようがない。教授の存在が無ければ私は今こうやって笑えていないのだから。


「私にとって何よりも大事です。スネイプ教授、貴方に感謝の気持ちを直接伝えることは。」


少しばかり目を丸くした教授は、再び眉間に皺を寄せ溜息を吐いた。怒っているというよりは呆れていると云った方が良いだろう。無言で私を見た教授の目が「くだらない。」と云っているような気がした。笑みを浮かべたままの私に教授は背を向けて「くだらん。」と予想した通りの言葉を呟いたことに苦笑いをした。


「私に感謝していると云うなら態度で示して欲しいものだが。」
「え?」
「机の上にある添削済みのレポートを配っておけ。」
「あ、はい。」
「それを終えたら、授業で使用した器具の片付けだ。」
「片付け?」
「その後は其処にある本を図書館の書庫へ運べ。」
「これ全部ですか。」
「感謝の気持ちを伝えたいと云ったのは誰だ。」


そう云って嘲笑に似た笑みを浮かべた教授の横顔を見て思わず笑みが零れた。


「何をしている。」
「はい、今すぐに。」



そしてまた私の今まで通りの日常が始まる。