Close my eyes



酷く冷える夜だった。感覚を失いつつある指先を湖の水に沈めても何も感じない。もしかしたら水中の方が暖かいかもしれない。そんな夜だった。

私は一人、湖の淵座り込んで揺れる水面に自分の姿を映しては、掻き消すように指を動かし、また映す。それを繰り返していた。月は夜空に姿を見せず、隣に置いた杖の先から出る、月の変わりにもなりやしない小さな光が辺りを照らす。世界は闇のレースに包まれているようだった。



「ALL in the golden afternoon
Full leisurely we glide;
For both our oars, with little skill,
By little arms are plied,
While little hands make vain pretence
Our wanderings to guide.」



呟いた言葉は花が散るように零れ落ち、湖を揺らす。この言葉の続きが終われば物語の中の少女の冒険は始まるけれど、私が全部言ってみても物語が始まるどころか、まだ夜も明けやしない。



「ミス・



湖に手首まで沈めた丁度その後、夜までも裂くような冷たくて、鋭利な声が私の耳を貫いた。この声になら何度刺されたって構わない。



「今の時刻をお知りかね?」



むしろ、殺されても良い。この声ならば、痛みなど知らない、甘い死が迎えられそうだ。そう思って、目を閉じて、その声に酔いしれる。



「ミス・!」
「まだ、2時を少しばかり過ぎた、静かな夜に教授の怒鳴り声はいらないわ」
「黙れ。私が減点せぬうちに寮に―――」
「教授は素敵な声をお持ちですね」
「話を聞いてるのか」



腕を引っ張られ湖から手が離れ、水滴がまた水面を揺らす。ほら、やっぱり、水の中の方が暖かいわ。



「聞いています。決して聞き逃すことのないように。」
「だとしたらお前には理解する頭がないとでも?」
「そうかもしれません。私には教授の声を聞くことしか出来ないのかもしれません」
「もういい、口を開くな。」
「教授がお話を一つ読んでくださるなら、喜んで承りましょう」



ぶらりと下がった手に持っていた杖の光を消してしまえば、辺りを一瞬にして暗闇が覆った。腕を掴む教授の手が離れない限り、闇に溶けてしまった教授の姿を失うことはない。



「Ah, cruel Three! In such an hour
Beneath such dreamy weather,
To beg a tale of breath too weak
To stir the tiniest feather!
Yet what can one poor voice avail
Against three tongues together?」



また一つ、私は少女の物語を進める。教授が杖に光を点けて私を睨みつけ、勢い良く腕を離した。私を見ている教授の顔に驚きの色が塗られていく。

ねえ、私思うの。絶対水の中の方が暖かいって。

水が跳ね上がり、湖に波紋が広がっていく。私は暖かいその中に体ごと沈みこんでいった。

暖かくて、幼い頃、母の腕に包まれているような、心地よい世界。

何か言っている教授の声が水に遮られ聞こえない。水の中なのに、頬に涙が伝ったような気がして、私の意識は途切れた。





Down, down, down. Would the fall never come to an end?





聴き慣れた声が聞こえる。ああ、私はこの声を知っている。この声の持ち主も。



「――――、教授」



白い天井から横へと顔を動かしたら、真っ白なカーテンが教授の姿を強調するかのように、一際目立たせた。相変わらず眉間に皺を寄せ、こちらを見ている。



「あそこで掴んでいた腕を解いてしまうのは、例え、いえ、きっとする気はなかったのでしょうが、私を湖に突き落とすのと同じ行為です」
「何故、手を伸ばさなかった」
「手を?何故?」
「問い返すな。手を伸ばせばあの場ですぐお前を引き上げることが出来た」
「私が手を伸ばせば、手をとってくださったのですか?だとしたら惜しいことをしてしまいました」
「生憎、お前を湖から引き上げたのは魔法だ」
「・・・・、それは残念です」



時計はすでに4時を過ぎていて、あと数時間も経てば私のいつも通りの日常が始まる。



「Imperious Prima flashes forth
Her edict to begin it
In gentler tone Secunda hopes
There will be nonsense in it!
While Tertia interrupts the tale
Not more than once a minute.」



少女の物語は今日はここで御終い。うつらうつらとしてきた意識の中、紡いだ言葉に教授は「童話を暗記する頭があるのなら、薬草の調合の仕方でも覚えたらどうだ」と私を見て笑った。厭味な笑みだけど、教授に優しく微笑みかけられても、私はそれに返す術を知らないから、厭味な笑みで充分だ。


瞼の上に手がかざされ、私は反射的に瞳を閉じた。ゆっくりと瞼の上に置かれた手が、今はゆっくりとおやすみ。まるでそう言っているようで、私は眠りに落ちた。








「Mr.スネイプ、まだいらっしゃったのですか?」
「少々、説教に時間がかかりましてな」
「経緯はどうであろうと、こんな寒い夜に湖に落ちたのですから、お叱りは生徒の体調が戻ってからにして下さらないと困ります」
「ああ、すまない」



困ったようにマダムは溜め息を漏らし、スネイプに念を押す。



「それと、生徒を助けるのは構いませんが、教師である貴方までも湖に入るというのは関心出来ません」
「いや、まさか湖に沈んでいる人間がいるとは思うまい。杖を自室に置いてきていたようだ」



自分の濡れたローブを腕にかけ、医務室を出て行くスネイプの姿は暗闇の広がる廊下には溶け込んでしまい、右手に持った杖から出る小さな光だけがぼんやりと光っていた。





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文章内の英文は不思議の国のアリスから引用させて頂きました。